中村石材工業株式会社  

 

NO2 淀城跡公園 石垣修復工事 Page1

1.淀城の位置と概要

 淀城は、京都市街地より、大阪寄り南12kmの所で、桂川、宇治川、木津川の合流する所に位置しており、昔から山城盆地(現京都盆地)と、大阪平野を結ぶ要衝であった。現在は、京阪電車淀駅の西側に当り、天守台の石垣及び本丸の石垣の一部が残っている。

2.淀城の歴史 

 淀には中世の淀城、秀吉の淀城、近世の淀城と3つの城が存在し、現在残っているものは、元和9年将軍秀忠が、松平定綱に淀の築城を命じたものである。当時徳川幕府は後水尾天皇の行幸を仰ぐ為、二条城を増築する一方、その守護、警備する役割を担って伏見城を廃しており、淀城がこれに変わるものとして築かれたと言われている。定綱は秀吉の淀城から位置をかえて、新たな構想のもとに、現在の地に近世城郭にふさわしい規模、施設の淀城を築いた。城内の建物は五重の天守をはじめ三重櫓六棟、二重櫓七棟、一重櫓二十五棟、櫓台のみのもの二ヶ所、櫓門四棟、冠木門十六棟、水門ニ棟、舟入門三棟を数え、本丸には金張りつけの彩色絵で飾られた「帝艦之間」など豪奢な殿舎がいとなまれていた。
 また、用材は伏見廃城の建物を移して建てたが、天守も最初は移建する予定で、天守台をその大きさに築いたところ、にわかに変更があって伏見城天守を移したと言われており、真偽のほどを確認するのは難しい。
 
慶応四年鳥羽伏見の戦いで淀城は旧幕府の守備隊としてこれにのぞんだが、時の城主稲葉正邦が老中についていたにもかかわらず、藩兵は城内にいて戦況を見守っていた。結果的には官軍側が優勢とみると、淀城は敗走する旧幕府軍に対して門を閉ざして中立を守った為、幕兵は淀藩が寝返ったと思い、怒った幕兵が城下町に放火し焼け野原と化した。その後淀城は廃藩となって城内の建物を破却、周辺の石垣や堀は取り除かれ埋め立てられ、現在に至っている。

3.石垣復元に伴なう事前調査

 本工事は、昭和63年度に、淀城跡、天守台調査(伏見城研究会が担当)後に行い、石垣の復元工事を進めた。同調査においては、天守台内部石蔵の確認及び天守台の構造を知る、礎石類の発掘を主として行なわれており、その概要が明らかになっていた。当社は、引き続き復元を行なう基礎資料の作成を行なった。その結果、天守台石蔵内部の礎石と、天守台に出土している礎石は、一定の法則にのっとって並べられており、天守台の土台の構造を知る手掛かりとなった。
                                            

 

 

 

      天守台の礎石調査状況 北東より                    天守台の礎石調査状況 北西より

 天守台は、1間7尺で割り付けられており、東西方向8間、南北方向7間、の天守の土台となっていた。また、古図で見られる角櫓の礎石は発見されていないが、本体の石垣端部には、2間+1尺から2尺程度の空間があり、そこに入っていたものと思われる。
 また、高さにおいては、石蔵内部で見る限り、北西を中心に、南北及び東に向かって同じく20cm程度下がっており、上部天守台外側の礎石では、北西を中心に南東に向かって50cm程度下がっていた。天守台の四隅においては、南東隅部で10cm程度下がっており、この事から南東部において、沈下している事は明白であり、その程度は10cm〜20cm程度と思われ、今回修復工事には、天守台外側北西端部の礎石22m300を基準に復元工事を進める事とした。

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